記憶疾く熾
クノ

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 目が回る。まるで逆立ちしているようだ。意識はひどく不明瞭で、かつ混沌としている。
 がちゃり。と音がする。鍵を開ける音だと思った。明暗のコントラスト。移動はあっという間だ。くぐもった意識で目を開ける。
 ほぼ真っ暗と言っていい部屋で、エドワードは唯一、自分以外の存在を背中に感じる。
「大丈夫か? 鋼の」と、別段聞き覚えたくはなかった声だった。ロイ・マスタング。かつてエドワードを散々揶揄し、振り回し、そして励起した人物。
 そんなことはどうでもよかった。まずは状況把握だ。エドワードはきょろきょろ周りを見渡した。必死に瞳孔を開いたところで、あまり狙った効果は芳しくなかった。解ったのは、どうやらそれほど広い部屋にいるのではないだろう、ということ。湿気とかびくささから、地下にいる可能性がそれなりにありそうだということ。エドワードは背後に両の親指を拘束されていて、どうやらそれは背中合わせのロイと繋がっていそうだということ。だが、それだけでは何にもならない。記憶もずいぶん辿る必要がある。そもそもなぜこんなところでこんな目に遭うことになったのか︙︙。
 脳を回転させようとして、止まった。
「あ?」
「気付いたかね。というか、やはり君もそうなんだな」
 からかうような声音だった。
「私たちには記憶がない。ほとんどの体験が思い出せない。なのに不思議なものだ。不安は特に感じない。それに、私がロイ・マスタングで君がエドワード・エルリックであるということだけが解るんだ」最後に申し訳程度に付け加える。「私が君を『鋼の』と呼んでいたこともね。なぜかまではよく解らないが︙︙」
「雑だな」エドワードは吐き捨てるように言った。「あんたそんなんだからいつもあきれられるんだよ。あの︙︙」と、そこで喉が詰まった。「あの︙︙あの、いつもあんたの傍にいる︙︙金髪の︙︙」何も解らなかった。
「まあ、問題はないだろう」ロイは気楽な調子だ。まるで鼻歌でも歌いだしそうでもある。
 エドワードは肩をすくめた。正確には、そのようになりかけた。拘束された親指が邪魔をして、うまくはできなかった。どうせ、ロイは発火布も奪われているだろうに。
「そりゃ、これくらい俺にはどうってことねえよ」
 ロイの笑い声が聞こえた。顔は見えないが、彼は間違いなく笑っているだろう。あの胡散臭い、信用はできても信頼はできないタイプの表情だった。
「問題はないね。もう一つ、覚えている顔がある。そしてそれが犯人だという確信がある。それを無条件に信じるのは愚策だが、少なくとも今のところこれは、」ふ、と息をつかれた。「動機当てゲームワイダニットだ」
 エドワードは舌打ちをした。

* * * * *

 新しく建設し直された東方司令部の執務室は、以前のものよりずっと広かった。権威の問題というより、ここで数名での話し合いができるよう、応接機能をつけた結果だ。
 扉と反対側の壁にある窓も大きく作られている。太陽の光を多く取り入れるだけで人間は多少ポジティブな考え方ができるようになる。という言説がある。
 細く長く息をついた。視線を上げる。デスク越しに彼がいる。
 どうやら彼は怒っている様子だった。不可思議なものだ。男は彼を怒らせた覚えはなかった。ちっとも。本当に。
全てを得ようだなんてするなよ」
 釘を差す口調だった。
「そんなもの、等価交換じゃない。『新しいルール』でもない」
 彼には答えず、窓の外を見た。
 良い天気だった。雲が一つもないということを、大きな窓が証明していた。近くには大きな木が一本生えていて、新しい建物はそれの隣に沿わせる形で造られていた。窓の端に見えている。
 ぴよろろろ、と少し間抜けな音が聞こえた。ふさふさと広がっている枝葉に、一羽の鳥が止まった。鳥は、木になっている実を食べようとしている。だが、かれ(と呼ぶべきかは解らない)の良くないところは、複数の実を一度に得ようとしているところだ。実Aと実B、二つを一つのくちばしで得ることは不可能なのは鳥の頭でも解るはずだ。
「おい、聞いてるのか」
 彼の言葉は無視して、鳥を観察する。なるほど、様子を見ていて得心するところはあった。おそらく、鳥が実Aを食べようとすると実Bを落としてしまう。逆に実をBを食べようとすると、実Aを落としてしまうのだ。かれはそれを理解している。思ったよりも賢かった。落ちた実を食べればいいと思うのだが、それはかれの美学(と人間であれば呼ぶべき何か)が許さないのだろう。
「錬金術師は」
 ほとんど無意識に口を開いた。
「もう等価交換に縛られる必要はない。それこそ『新しいルール』だ。科学は常に進歩する。古いルールは新しいルールに淘汰され、更なる深度の真実に塗り替えられていく。それは正しいに決まってる」
「そうじゃない︙︙」
 彼はいらだちを表に出し始めた。もぞもぞ動いている。もちろん、そういうことではないことを理解していた。
「錬金術師は関係ない。誰であろうと全てを手に入れることなんてできやしない。たとえそれまでに何を失ったとしても」
「それこそ等価交換じゃない」
「言葉遊びはいいんだ」
 薄く笑った。滑稽であろう彼の表情を眺めるべきか、それとも鳥の顛末を眺めるべきか、強欲な選択肢をせまられている。自分もあの鳥と同じようなものだった。目は二つあっても、結局同じだ。一つしか見ることはできない。
「おい」
 中途半端に目をうろつかせていると、デスク越しに顔がせまってきた。彼は怒っている。自分のことを嫌っている。なぜなら、二人は決定的に違うものだからだ。当然である。
 彼の青筋を確認した後、窓の外を見る。
 鳥はいなくなっていた。実は二つともなくなっていた。かれが奇跡を起こして二つとも食べることができたのか、どちらかを食べてどちらかを落としたのか、はたまたどちらも得ることができなかったのか。
 それは定かではない。


「機を見計らうべきだ」
 ロイは朗々と言った。
「はあ?」
「もちろん、我々であればすぐに脱出することはできるだろう。人が二人いるということは、少なくとも頭脳に関しては足し算ではなく掛け算だからな。まして、私と君であれば脱出に可能な『値』に達するのは容易なことだ」
 迂遠な言い方をエドワードが嫌っていると解ってやっている。はっきりとそれどころではないというのに、悠長なものだった。記憶がないのに不安がない。それは確かなのだが、これ自体は全く安心材料ではない。不安がないことに不安を持つべきだ。ということなど、ロイにだってすぐ理解できるはずだろうが。
 もしか、彼は何か精神に異常が生じているのかもしれない。当たり前のことに気付く。そもそも安心できない安心があること自体、エドワードだっておかしいのだ。ロイはもう少し進んでしまっていて、警戒すらできなくなっている可能性は考慮すべきだ。
 エドワードにとっての問題は、一つ。自分は『すべき』論が大嫌いである。
「んなかったりぃことしてらんねえよ。とっとと脱出する方法を考えてとっとと脱出してとっとと犯人をボコす」
「待ちたまえよ」
 まったく正気のように、ロイはエドワードをたしなめた。絶対的な年齢差は埋められないが、相対的なものは昔とだいぶ変わったはずだ。初めて会ったとき。お互いこの国と決着をつけたとき。そして今。エドワードは十七歳で、ロイは三十二歳。倍にはならなくなった。エドワードの年齢が重ねられるほど、二人の差は倍数的には縮まっている。なのにロイは昔と変わらないようなしぐさなので、腹が立つ。
「そう短絡的なことを言うがね。この『犯人』に効果的な罰を与えるのであれば、私に従ったほうが得策だと思うが?」
「なんでだよ」
「物理的に殴られるより、社会的に殴られるほうが痛いタイプの人間もいる」
「両方で殴ればいい」
「どちらを優先するかという話をしているんだ。私は」
 ロイは呆れている。
 正確に言えば、エドワードの怒りには何の意味もなかった。ロイは確かにエドワードへ対する態度を変えないが、それは子どもに対するものではない。彼は最初から、少なくとも初めて会った次のときから、エドワードを子ども扱いしていなかった。
 閑話休題。それは置いておいて。何はともあれ。エドワードはロイに会話の主導権を握らせるわけにはいかなかった。何しろ彼は自分よりずっとおかしくなっている。
「あのな大佐
 そこで、エドワードは喉を詰まらせた。致命的な間違いに気づいた。ロイは今、大佐ではない。もう二年前に階級は変わった。そして、東方司令部のトップを任されている。
 エドワードは再び舌打ちをした。やはり、自分も充分おかしくなっている。
「︙︙とにかく。とにかくだ。まずは脱出してからどうやってことを進めるかを考えるべきだろくそったれ」
「なんだそれは」
「どうでもいんだよ」
 小さく笑う気配を感じた。
「まあいいだろう。君の言っていることに間違いはない。様子を見よう」
 ロイの言葉に、エドワードは再び舌打ちをした。
 年齢の経過に関係なく、彼はいちいち平常心を保ち、『正しい判断』を下そうとする。感情的になったところを知らないわけではないのだが(そしてその時は最悪の事態であったということも理解している)、それでも彼は自分の欲求にコーティングをしている。感情の焔はあくまで裡に秘めたまま、表ばかりは馬鹿馬鹿しい道化を演じるか、あるいは冷たく機械的に振る舞う。
 エドワードは理解している。
 彼は自分と似てるくせ、決定的に自分とは違うのだ。


 空が赤い。隣には金髪の女、そしてさらにその隣には一匹の犬がいた。
 太陽のほうを向く。女も、続いて犬も、それにならった。
「西へ?」
 女が怪訝そうに言った。
「ああ」
「なぜ?」
「理由か。難しいな」
 眉をひそめる。犬がわんと鳴いた。やや敵意を感じる。
「向こうのことに首を突っ込むのは」
「解っている」
 わざわざ耳をふさぐ。もちろん、ただのデモンストレーションに過ぎない。話を聞く気はない。何を言われようが、自分は自分のしたいようにする。しなければいけないようにする。
「仕方ないんだ」
「何が仕方ないのやら」
「ここはたとえ話でどうだ」
「どうだと言われても」
 女は困惑している。犬は吠える。自分は少し困っている。複雑で進まない状況とは裏腹に、太陽は容赦なく沈んでいった。あっという間にあたりが暗くなっていく。
「つまり――そうだな。ホールケーキを持っている子どもがいるとしよう。家が金持ちだから、親にもらったんだ。彼にはクラスメイトがいて、もちろんクラスメイトもケーキが大好きだ。だから、彼にケーキを分けてほしいと言う。だが、彼はまったく、ひとかけらも、与えることはない。『スプーンですくったら下品じゃないか。』こう言うんだ」
 女は何も語らなかった。黙ってこちらを見上げていた。一応何かしらの相槌を期待していないわけではなかったが、それもまた仕方ない話ではあった。
「もちろん、彼のほうがおかしい。もしスプーンで生クリームとスポンジを取るのが下品であるというのなら、ナイフを持ってきて切り分けてやればいい。ホールケーキなのだから、むしろそれが正しく、上品というものだ。だが、彼はそんなことは一言も口にしなかったし、クラスメイトが言おうとしても、金切り声で塞いだ。そうして、結局クラスメイトには一口もやらずに自分で食べた。数年経って、彼の家は落ちぶれた。彼はケーキを食べたいと、かつてのクラスメイトにせがんだ。クラスメイトたちは一つのホールケーキを綺麗に切り分けあって食べていたが、彼にはやらなかった。彼はそれを恨んだ」
 必要な話が終わった。彼女の反応を見る。何も表情が変わったようには思えなかった。ただまっすぐ、こちらを見ている。
「許せないだろう?」
「人によるのでは?」
 ただでさえあまり大きく動かない表情だというのに、暗くなってきているからますますよく解らない。細心をもって見る。だが、やはり何か彼女の心を動かしたようには思えなかった。
「あなたは過去ばかりを注視している」
 女は腰を下ろした。まるでこちらへの興味をまったく失ってしまったかのようだった。犬の毛並みを撫でている。寒くないか、確認するように。
「何をしてきたかは最重要項目だ」
人によるのでは?
 彼女は同じ言葉を重ねた。顔さえ向けないままに。
「たとえば、なら違うことを言うんじゃないかしら」
「︙︙つまり?」
 小さく、本当に小さく、笑い声が聞こえた。ころころと。
「彼ならこれからどうするかを評価するんじゃないかと」


「さて、やらなければいけないことを考えなければな」
 ロイは平時通りの落ち着いた声で言った。
「どうにもこの拘束具、というか紐だが、これは分子結合が密な物質でできているようだ。力づくで抜け出すのは難しい。私が錬成陣を書いてばらすにしても、これだけややこしければ相当しっかり書く必要がある。そのための材料がない」
 何しろ運の悪いことに、ロイは両手を合わせられるような形には拘束されていなかった。
「唾液とか」
「格別酸っぱいレモンのことでも二人で考えれば充分な分泌量になるかね」
 皮肉げな口調に、エドワードもくつくつ喉で笑った。
「あとはたい――少将の器用さも問われるな。この状態で複雑な陣、書けるかねえ。政治ごとに忙殺されて、錬金術師としての腕は衰えてんじゃ?」
「なめるなよ。小指がペンで背中が紙であろうと何ら問題ない」
「ああそう。んじゃ、あとはインクだけだな」
「まあ少し待て」
 ロイは親指を動かしはじめた。エドワードはその意図を瞬時に理解する。
「︙︙感染症にはあとあと注意しねえとなあ」
「まったく、この前健康診断を受けたばかりなのだが」
 エドワードも親指を動かし始める。硬度の高い紐に皮膚をこすりつけ、出血させるために。
 それから、二人が流した血で、ロイが自分の上着に錬成陣を描いた。拘束を解けるほどには複雑なものは描けなかったが、それは問題にはならなかった。何しろ、描いているのは彼のもっとも得意分野の錬成陣だからだ。
 すなわち、空気組成である。
 長らくの旅の経験を生かして、エドワードが周囲を漂っている空気がおかしいことを当てた。他人よりは嗅覚が優れている。この場所には無色の煙が漂っており、それが二人の精神と感覚に異常をもたらしている。
「これから私の言う犯人が君のものと一致していたら、間違いがないということにしよう。ひとまずはな」
「ああ」
 錬成陣が完成すると、空気が動き出す。そうして初めて、二人は自分たちのいる部屋の空気が濁っているということを、視覚的に理解することができた。
「コーンウォリス。元国家錬金術師だ。クーデターの際、彼はどちらにもつかなかった。ゆえに、処罰にはいたらなかったが、その地位を維持することもできなかった。彼は国家錬金術師の報酬で自転車操業的に研究をしていたから、たちゆかなくなった」
「合ってる」
 エドワードはうなずいたが、背中合わせのせいでロイにはもちろん見えていない。
「んで、あいつは今、かつての研究仲間、つまり他の錬金術師たちに支援を求めている。けど、コーンウォリスはそれまで国家錬金術師じゃない仲間の支援を断り続けていた。だから、まあ、自業自得だよな。でも、逆恨みをしている。専門は幻覚効果のある薬剤の精製だ。イシュヴァールのときも投入される予定はあったらしいな? 成果が間に合わなかったらしいけど」
「少なくとも私は現場で見ていない」
「これを別の国に売り込んだらたいそう高く売れるだろうな」
 空気が揺れている。重い湿気が地面を這って、どこかへ逃げようとしては消滅する。錬成そのものは確実にできている。ただし、化学変化というものは単に物事をよいものにするなどという抽象的なことはできない。あるものをあるものに変化させるだけだ。
「さて、君の分析をもとに私が希ガスの一部の分子式をばらしたわけだが︙︙」
「うまくいくもんかねえ」
 少なくとも、見えるものは何もなかった。


 空が赤い。隣には金髪の女、そしてさらにその隣には一匹の犬がいた。
 太陽に背を向ける。女も、続いて犬も、それにならった。
「西へ?」
 女が怪訝そうに言った。
「ああ」
「なんで?」
「理由か。難しいな」
 眉をひそめる。犬がわんと鳴いた。自分に構ってほしそうだ。
「そこに行くのはただただ危ないだけなんじゃない」
「解ってる」
 わざわざ耳をふさぐ。もちろん、ただのデモンストレーションに過ぎない。話を聞く気はない。何を言われようが、自分は自分のしたいようにする。しなければいけないようにする。
「仕方ないんだって」
「何が仕方ないんだか」
「だってよ。ずっとそうしてきた。気に入らないものを見なかったふりできねえんだ」
「そう言われてもなあ」
 女は困惑している。犬は吠える。自分は少し困っている。複雑で進まない状況とは裏腹に、太陽が沈んでいく気配がする。あっという間にあたりが暗くなっていく。
「つまり――そうだな。お人好しとか、そういう言葉じゃ表せねえけど。どんなに寄り道になったとしても、関わっちまう。これから起ころうとすることを、見逃せない。昔っから。それでお前にも迷惑はかけたけど︙︙でも、そうしないとだめなんだ。自分でなくなっちまうみたいで」
 女は何も語らなかった。黙ってこちらを見上げていた。一応何かしらの相槌を期待していないわけではなかったが、それもまた仕方ない話ではあった。
「もちろん、合理的じゃない。そんなことは解ってる。でもムカつくんだ。そりゃ誰だってズルすりゃ他人より得をするよ。でもそれはリスクだ。労せず利を得る代わりに、大きな罰を受ける可能性がある。でもそれは可能性だ。大体は、のうのうと利を貪って、貪られた奴はただただ弱っていく。だからさ、その可能性を百パーセントにしたいんだ。別に正義の味方を気取ってるわけじゃない。ただただこれからムカつくことをしようっていうのが目の前にぶら下げられたら」
 必要な話が終わった。彼女の反応を見る。何も表情が変わったようには思えなかった。ただまっすぐ、こちらを見ている。
「許せないだろ?」
「人によるんじゃない?」
 大きくころころ変わる表情のはずが、暗くなってきているからますますよく解らない。細心をもって見る。彼女はおおむね同意してくれているようだが、呆れているようでもあった。
「あんたは未来のことばっかりね」
 女は腰を下ろした。まるで自分も落ち着かせようとしているかのようだった。犬の毛並みを撫でている。寒くないか、確認するように。
「何をするかが全てだろ」
人によるんじゃない?
 彼女は同じ言葉を重ねた。顔さえ向けないままに。
「たとえば、あの人なら違うことを言うんじゃないかな」
「︙︙つまり?」
 快活な笑い声が聞こえた。あはは。
「あの人ならこれまでどうしてきたかを評価するんじゃないかなって」


「すぐぶん殴りに行こう」
 エドワードは今にも怒りだしそうな口調で言った。
「ふむ」
「そりゃ、いったん脱出して、逮捕令状を突き出すことだってできる。穏当な方法だ。けど、そんなんじゃ犯人は痛みなんて半分しか理解できねえよ。もし抜け道を用意してたら罰金だけ払っておしまいかもしれない」
「西部だってそんな甘くはないはずだが」
「解んねえよ。まあ、コーンウォリスの立ち回りはうまくなさそうだけど。でもそうなるかもしれない。そんなの俺は嫌だ。確実に『自分は間違っていた』と思わせて、二度とやりたくなくなるようにさせたい」
「下手なことをしたら私たちの方が暴行罪だが」
「こんな目に遭ってるんだぜ。正当防衛だ」
「正当防衛」
 思わずおうむ返しに呟いた。つい先ほどまでエドワードの言っていたことのどこに『防衛』があるのやら。全く、歳を経ても落ち着きがない。血の気が多い。
少将だって、ここじゃ裁量はないだろ。ただのロイ・マスタングとしてここに来ている。違うか?」
「否定はしないよ。これはあくまでバカンスだ」
「牢屋でねえ」
「人生でもっとも最悪なバカンスとして、今後話のタネにするしかないな」
 呆れてみせる。いや、そうではない。この男は、言ったことは確実に成し遂げる。その前に止める必要がある。
エドワード、君はもう成年なのだから、もっと思慮深くなるべきだ。一つ一つ手で殴っていてはとても手が足りはしない。それよりは、どうやったら全員にダメージを負わせるべきか、そのための手段を構築するためにコストを割くべきだ」
 可能な限り振り向いて、今は生身となっている腕を見る。仲間と協力して物事を解決した実績があるにも関わらず、彼はそれでも一人で何かをしようとしたがる。理由も大体予想がつく。彼はすなわち、自分のしていることがエゴによるものだと理解しているのだ。だから、他人を巻き込みたくない。優しいことだ、とロイは思う。自分なら使えるものはありとあらゆるものを使い、巻き込み、ことをなすが。
「それでも」
 と、エドワードははっきりと言った。
「殴れるだけ殴る。俺の手と足が動く限り。少将はそうすればいい。あんたはそれをずっとやってきたし、今後もそうしてくんだろう。だから、俺だってこれをずっとやってきたし、今後もそうしてく。それでよくないか」
「かなわないな」
 小さく肩をすくめる。拘束のせいでうまくはいかなかったが。
 彼は正論を言っている。他人の人生に口出しをする必要はない。彼はもうとっくに判断ができる年になっている。そもそも、最初に会った時からそうだった。母親が死に、弟が人間の体をなくしたエドワードに対して、ロイはあくまで『可能性を提示する』のみにとどめた。あんな小さな子どもでも、自分で判断するべきだと考えたのだ。そしてそれは今でも正解だと思っている。
 だからこそ、エドワードを眩しく感じる。常に自分の感情に従い、やりたいと思ったことをやる。不都合なことは他人に隠して、たった一人でことをなす。弟と別れた今はなおさらだ。
 ロイは理解している。
 彼は自分と似てるくせ、決定的に自分とは違うのだ。 


 長く雨が続いたせいで、東方司令部の壁はわずかに汚れてしまっていた。築年数が浅いほど、それまでが綺麗であればあるほど、ちょっとした汚れが気になってしまうものだ。
 久方の快晴、東方司令部の有志が掃除をしていて、男は少しそれに付き合っていた。
 突然、怒号が響いた。それがあまりにも聞き慣れた声だったので、隣にいたフュリーと顔を見合わせる。少将、ですよね。だな。短い会話の後、男は走り出した。フュリーはややためらった後、ひとまずはついていかないという選択をした。
 司令部の壁を沿って、右に曲がる。と、あっさり目的の人物は見つかった。彼と、それから、見も知らぬ少女。褐色の肌をしていて、男は昔自分が叱咤した少女を思い出した。
全てを失うだなど許さない」
 彼にしては、ずいぶん殺気だった言い方だった。正確に言えば、敵ではないと思われる、ただの一般人相手にしては。
「確かに生きることは難い。死ぬことは易い。大抵の場合、痛いか苦しいか、あるいはそのどちらでもあることを除けばな。だが、君は生きることが義務付けられている」
 よくよく見れば、司令部の執務室からよく見える大きな木に、縄がぶら下がっていた。先に輪っかが作られており、つまり、少女はここで首を吊ろうとしたのだろう。なぜ民間人がここでそうしようと思ったのかは今のところ解らない。だが、軍に恨みを持つものはいる。いつだって。今だって。
「君をよく思っているものがいるだろう。大切な恋人が死んだ? よろしい、もっとも大事な人は亡くなった。だが君には友人がいる。家族との関係は良好か? どちらもダメだったとして、君は生きていくために誰とも関わらないことは不可能だっただろう。過去は変えられない。君はその過去に報いる義務がある。だから、生存は権利ではなく、義務だ」
 言い切った。軍人として、憲法にも法律にも載ってないことをあっさり言うのはどうかと思う。だが、少女は涙を浮かべてその場を走り去っていった。彼はそれを追わなかった。小さく息をつき、肩をすくめている。男はその隙に木へ近づく。背伸びをして、縄を外す。彼は男の存在には気づいていたようだった。驚くことなく男の方を向いた。
「ずいぶん︙︙背が伸びたじゃないか」
「今までがチビだったみたいに言うな」
 彼はくつくつ笑った。彼は、少し落ち着きが増したように思える。もともと、ちゃらんぽらんな態度の下に、冷徹に少し足らない程度の冷静さを持っていたが。
女の子にあんな厳しく言うなんて、少将らしくないな」
「その方が効果があると思ったんだ。全く、あと数年もしたら大した美女になるに違いないのに。まあ私に恩を感じていれば、後で何かいいことをしてくれるかもしれないな」
「あんなこと言わず、ただ助けるだけでも効果はあるはずだ。物理的に」
 彼は肩をすくめた。
「認めるよ。私は彼女に怒っていた。よりによって、我々に当てつけるために死ぬだなんて馬鹿らしいにも程がある。それなら私を殺しに来た方がまだマシだというものだ。彼女の恋人は我々が関わった案件で、間に合わずに亡くなった」
「にしては、ずいぶん言葉の選び方が厳しかったじぇねえか」
「持論だよ」
 彼は声のトーンを落とした。既にぴかぴかにしたばかりの壁に、容赦無くよりかかる。男はもったいないと思ったが、仕方ないだろう。
「もちろん、立場上で言えば、自殺は困る。人が生きて、食料品を買うだけでも経済は回る。勝手に自殺などされてはたまったものではない。だが、それ以前に私は」
 そこで言葉が途切れた。
「︙︙俺も、同意見だけど、理由はちょっと違ったかな」
「ほう?」
 興味深そうに、彼は男を見る。男は薄く笑った。
「だって生きてりゃなんだってできる。死んだらなんだってできない。だから死ぬのはやめた方がいい」
「それでは足りないと私は思うね。生きているからといってなんでもできるとは限らない。ケースバイケースだ」
「できるさ」
 少し、睨み合う形になった。もちろん、男はあの少女の生い立ちや、現在の人間関係のことは知らない。男よりもまだ年齢が下の、親がちゃんと機能していれば彼、彼女、あるいは彼らに養育されているような年だった。たとえば彼らが彼女をやたら束縛しているのなら、自由ではないのかもしれない。
 だが、本当の意味ではそうでないと男は思っている。逃げる方法はきっとある。なんなら、縁があれば脱出を手伝ってやってもいい。
「君、今変なことに首を突っ込むことを考えただろう」
 男は言葉で返答する代わりに、小さく舌を出した。彼のため息。
 もちろん、彼女が今後どうするかは解らない。だが、生きることを選択し続けてほしい、と男は願った。

* * * * *

 ロイは薄く微笑んだ。
「まったく、ひどい目に遭ってるとは思うけど。犯人は解ってんだ。ぶん殴るにしたって一応のところ必要なのはこうだ」ふてくされたようにエドワードは言う。「動機当てゲームワイダニットだよ」
 彼は拘束されていない脚を、膝をまっすぐ伸ばしたままがんがん上下に揺らし、床に叩きつけている。片方が機械鎧オートメイルなので、まるで音楽を奏でているかのようだ。ずん、かん、ずん、かん。「二回に一度、左脚を増やしてみないかね。最近聞いている音楽のリズムにそっくりになる」「ふざけろ」低い声。
「毒が中和できれば、あとは持久戦だ。誰かは必ず来る。あるいは、まあ、一応この拘束を解けるよう努力もしてみるがね」親指をぐいぐい回す。ワイヤーがみっちりと食い込んでいる。「まあでも彼女が手配していると思うよ。何か言われるとは思うが。面倒だな」「ホークアイさん?」「君、私のことはいまだに階級で呼ぶのに」「あんたをさんミスター付けしたくないだけ」ため息をついた。
「気持ち悪い。センチメンタル」「うるさい」氷点下まで冷えたエドワードの声が突き刺さる。
 ロイは呟く。
「︙︙記憶がなくなる、のは、嫌だな」
 エドワードは黙っていた。ロイから見て、二人の間で年齢差はさほど重要ではない。それ以前に研究者仲間であるし、ある種の共犯者でもある。エドワードの行動の未熟さは、研究者としての後輩程度にしか思っていなかった。本当は、彼をこどもであるとみなすべきだったのだろうが。彼もまた、それを望んでいないのは確かだったので。
「記憶は脳のメカニズムに過ぎない。ニューロン、シナプス︙︙それらによって物理的に作られている。情緒はホルモンだ。そして、その全てを再生することはほとんどの人間にとって不可能。つまり、思い出せなくなる記憶は確実にある。だが」
 ロイは首を振った。状況を把握する。広くはない部屋。家具のようなものも、何かしらの機械のようなものも、何もない。がらんどうだ。ロイとエドワードはそのなかに二人、親指同士を拘束されていて、背中合わせにされている。
「とっとと出るに限るな。こんなところに長い時間いたら脳が混乱して完全に記憶をなくしちまいそうだ」
 言葉とは裏腹に、別段落ち込んだような声色ではなかった。それでこそエドワード・エルリックだと言えた。
「やんなるぜ」
「︙︙困ったな」
 ロイは疲労を覚えていたし、喉の渇きも感じた。もちろん軍人であるからして鍛えてはいるが、加齢による衰えはいなめない。いや、前総統のことを考えればそんなことは言っていられないが。
「おい、少将」と、気遣わしげのような、そうでもないような声だ。エドワード・エルリック。
 ほぼ真っ暗と言っていい部屋で、ロイは唯一、自分以外の存在を背中に感じていた。
 がちゃり。と音がする。鍵を開ける音だと思った。明暗のコントラスト。移動はあっという間だ。あざやかな意識で目を開ける。
 目が回った。まるで逆立ちしているようだ。意識はとても明瞭なくせ、混沌としていた。

さよならデイジーチェイン

あとがき>