光はたった四本の柱だった。湿っぽい廊下の天井に四角い小さな照明がついていて、そこから降っている。光源はほかにない。何秒かごとに響く水滴の音は、壁と天井に張り巡らされた配管のどこかで鳴っているのだろう。硬く冷たい床に転がってそれらを眺めている。背中に感じる硬さと温度は身体を隅々まで冷やしたが、じわじわと肋骨を苛む痛みに比べれば些細なことだ。風景にはとうの昔に飽きていた。鼻腔にまとわりつくひどいにおいに辟易していたともいえる。拷問と同じではないか? あくまで想像とはいえ、腐った卵を投げ入れた水にヘドロが浮いている様子を思い浮かべ続けなければならないなんて。
エドワード・エルリックは静かに両手を伸ばす。
空中に向かって――まっすぐに。寝転んだままなので、指先は天井を向くことになる。そのまま手首を回転させる。内側へ、それから外側へ。ちょっとした準備運動みたいな行動に特に意味はない。意味のないことなんてこの世界にはいくらでもあるのだと、エドワードはもう知っている。意味も価値もなくたって大事なことがたくさんあることも。
乏しい明かりの下で二本の素手を存分に眺め回してから、ふと笑いが漏れた。理由もへったくれもない、ただの衝動だった。突き動かされるがままに手のひらを開いて頭上にあるものを両手で掴む。すなわち――錆の浮いた鉄格子を。
「なぁ〜〜〜〜〜〜ちょっと〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
がしゃんがしゃんと派手な音が響く。両手で揺らす鉄格子のたてる音だが、無論この程度で曲がったり折れたりしてくれるほどやわではないようだった。どこもかしこも手入れなどろくにされていない旧世代設備のくせに生意気な。やさぐれた気持ちを丁寧にぶつけ続けていると、ほどなく遠くで別の物音が混ざったのを耳が拾う。木製の扉が開く音。それからのったりとした足音が近づいてきて、そばまで寄る前に怒号が降ってくる。
「またお前か。うるっせぇんだよ!」
鉄格子を掴んだ指を蹴り飛ばされる前に引っ込めて唇を尖らせる。「こうでもしないと来てくれないじゃん」
「メシならあと一時間だよ、おとなしくしてろ」
こんな場所に転がってるだけで腹なんか空くかよアホ。
声には出さずに毒づく。このにおいの中で冷えたパンをかじっても吐き気ばかりが増幅されるばかりだった。完全にエネルギーを絶ってしまうのは悪手どころの話ではないから、同時に提供される薄くてまずいスープとともに無理矢理胃に詰め込んではいる。エドワードの知りたかったのは日付と時刻だけだったのですでに回答は得たようなものだった。この古くさくて本当にカビの生えている牢獄に転がされてから五度目の食事の時間まで残り一時間、つまり外は真っ昼間だ。さすがに体内時計もまだ狂ってはいないらしい。こんな、暗い――空気孔のひとつもない、狭苦しくて薄汚い場所でも、心臓はいつもと同じ間隔で全身に血液を送り続けている、というわけだ。
人生は誰のもとにも平等に訪れる。始まって、終わる。その間にいったいなにが起ころうとも。
問いかけが勝手に舌に乗った。
「あんたさあ、こんな仕事してて楽しい?」
「はぁ?」
汚れた鼠でも見るような視線で見下ろされるが今更その程度で動じたりはしない。
床に寝転んだままで見上げる青年はまだ二十歳前後だろうという若者だった。歳下、であろう、おそらく。よほどの童顔でなければ。顎の裏を見上げているような格好でははっきり年の頃がわかるとは言いがたく、ただの勘である。ぱさついた蓬髪を後頭部でひとつにまとめている彼は、体格には恵まれているのに、光源が少ない中でもわかる程度に不健康そうな顔色をしていた。小汚い作業着の上下に安っぽい作業用ブーツ、羽織っている薄汚れたジャケットだけは軍部の放出品のようで、見た目はやたらとしっかりしている――どれだけすり切れても風格を失わないのは不思議なものだが。
――彼にはあまり似合っていないな。
ざわめく部屋に漂うたばこのにおいが懐かしかった。
青年には――あのジャケットを着こなすために不足しているものがある。多分、厳しい訓練だとか、国民を思う心などではない。
伝えたところでどうしようもない話だ。エドワードは片手で天井を指さした。
「そろそろ競りが始まる頃だろ。あんたは行かなくていいの」
「俺はここを任されてんだよ。花の苗なんか興味もねえ。ったく、ヤクの種でもあるまいし、なんであんなもんが高値で売れるんだか」男の目が細められる。「逃げようったってそうはいかねえぞ」
「そんなつもりないよ。それよりさあ、医者呼んでくれるって話どうなってんだ」
顔を歪めてみぞおちのあたりをさする。男はせせら笑った。「一応話だけはしてやったよ。話だけはな」
「ああそう」投げやりに返す。つまり見込みはないというわけだ。別に、まったく動けないわけでもないからいいのだが。「わかったよ、呼びつけて悪かったな」
ひらひらと片手を振ってやる。見張りの男は馬鹿にしたような笑いをひとつ吐き出した。捨て台詞の代わりだったのだろう。彼はそれきりこちらに背を向けた。エドワードは少しだけ首を曲げ、廊下の向こうへ去っていくブーツの底を眺める。青年の足音が完全に聞こえなくなってから盛大にため息を吐き出した。「ったくなにやってんだここの駐留部隊は」おそらく大昔に廃止されたものとはいえ、こんなのに管理施設を乗っ取られやがって。
「そんなものはいないよ」
おっと。
答えが返るとは思っていなかった。さきほどの青年がもどってきたのではない。別の声だ。
通路を挟んだ向かいの独房に男がひとり捕らえられているのは知っていた。エドワードが最悪の気分で目覚めたときにはすでにそこにいた。いかんせん明かりが足らないので細かい造作はわからないものの、なんらかの事情で爛れたらしい頬をこちらに向けて座っていたはずだ。こういった(社会の裏の)場所で出会う相手というのは、たいてい異様に饒舌か異様に無口かのどちらかで――男は後者のようだったので、早々に情報を得るのを諦めたはずだった。
なんの気まぐれで話しかけてきたかは知らないが、もしかすると軍部に不満でもあるのかもしれない。
エドワードは床に寝転んだままで首を巡らせた。声の出所のほうへと顔を向けようとして――すぐに諦める。頭のてっぺんを床につけて腹を持ち上げればなんとか視界に入れられたかもしれないが、肋骨にひびが入っている状態で曲芸をするつもりは起こらなかった。質問だけを飛ばす。
「いないってなんで? この規模の街だ、普通は隊のひとつくらいは本部との連絡用に配備されてるもんだろ」
「君、もしかして国外に出ていたりしたか?」
「なんで?」
問いは二重の意味をもっていた。
ひとつは、どうして自分が外国帰りだとわかったのか、という疑問。もうひとつは、国を離れていたことがいったいどう話に影響してくるのかという疑問だ。しまったな、とエドワードは顔をしかめる。言葉を短縮しすぎるのは悪い癖だった。
――まあ、どっちか答えてくれれば、流れで別の答えも聞けそうだけどさ。
一応わかりやすく言い直そうとして口を開く。が、エドワードが解説するより男が話し始めるほうが早かった。
「行商と文化の街、ラジニール」なんだか得意げに――あるいは皮肉混じりに男が笑う。「伝統ある都市ではあるが、実際のところは去年まではかなり寂れてたのさ。それが突然景気がよくなった。部隊というほどの人員が配置されていないのはそのせいだ。観光客の数は去年までのなんと五倍に膨れ上がってる。街興しが大成功したというだけならたいへん喜ばしいことだがね」
「違うの?」
「基本的には正しい努力でもって運営されているよ。劇場のリニューアルオープンと、特定劇団の優遇策が効いてる。大半の滞在者だって善良そのものだ。しかし、ひとの集まる場所には問題が起こるものさ」――というか、と声の主が言う。「痛いところを探ったから君もここに放り込まれたのでは?」
「まあそうだけど」
渋面をつくって天井を睨む。
政治や事業の裏で汚職をやらかす手合いの相手は子供のころに散々やった。多感な時期に積み重ねることになった経験は妙な血肉と化していて、街を歩いているだけでもなにか変だと察知してしまう。その結果が負傷と(ちんぴらまがいの輩による)投獄・拘束なのだから情けないが。
「俺、鍛え直したほうがいいかな︙︙」
ぼやきをこぼすと、鉄格子と廊下の向こうで男が笑う。
「平和ボケはおおいに結構だと思うがね。で、どうして外国帰りだと思ったかという話だが」
「――」
瞬く。
男には、さきほどのひとことに込めた問いを両方察知されていたらしい。にわかに悪寒じみた感覚がこみ上げる。冷たい床から伝わる直接的な温度とは別の、精神に忍び寄るものだ。このやりとりが可能な人間は限られていた。どうして気がつかなかったのか。そういえばなんだか、声にも話し方にも聞き覚えがある︙︙
「まあ、今の君ならアメストリスにこだわる理由もないだろうと思っただけなんだがね」
肋骨の痛みも忘れて起き上がる。まさか、と思いながら瞠った目に――焼けただれた半分以外は、見覚えのある顔が飛び込んでくる。彼が心底面白がっているときのすばらしく嫌味な笑顔。ぴっ、と機敏に挙げられる片手。
「やあ、久しぶり」
「たっ」
――見張りの男が飛び込んでくるまでに騒ぐのをやめられたのだから上出来だと思う。
昼食にと支給された硬いパンをしがみながらの情報交換となった。とはいえ、たいした内容はなかったが。街の発展に大きく関わっている芸術振興連合会は至極真面目にやっており、観光協会と連携し、阿漕な商売をしっかり取り締まっている。ただ︙︙地元の特産品である生花の取引の背後には妙な動きが出てきたようだった。おそらく人身売買とか、そういったたぐいのもの。
「あんたが司令部から出てこなきゃならない話とも思えねえんだけど」
「そうかね?」
「少なくとも、変装してわざわざこんな汚いとこで寝起きする必要はないだろ」案件としては確かに悪質な部類に入るが。
「そこはいろいろとこちらにも事情がある」今や国内全土に名を知られた男――焔の錬金術師、ロイ・マスタングが、澄ました顔で言う。彼はエドワードの遅々として進まない食事を尻目に、手早くパンとスープを平らげていた――〝軍用レーションと比較すれば紙一重でこちらの勝利〟。短期間でめざましい発展を遂げた街を訪れた彼は、視察という名目で市井に出る際、自分は顔が知られていないとも限らないからと仲良くなった劇団員に顔半分を派手にメーキャップしてもらったのだという。歴戦の男は今、薄汚い壁に背を預けていた。まるで本物みたいな火傷の跡(監修したのは彼本人だということだ。うげえ)をゆったりと片手で撫でている。「君こそ、もう錬金術も使えんのだから大人しくしておきたまえよ」
「仕方ねえだろ。気になっちまったんだもん」憮然として返す。
派手でにぎやかな街の中央通りとはかけ離れた雰囲気の、ひっそりとした通りがエドワードにとっての騒動の始まりだった。花の卸市場の裏路地だった。なにやら怪しい符合を交わしている男たちに不穏な気配を感じて思わず声をかけたのだ。事情もよくわからないうちから追いかけ回されたので、情報を得ようとしてあえて隙を作った。その結果――どぶみたいなにおいのする薄暗い部屋でなぜか昔の喧嘩相手と顔を突き合わせてぼそぼそしゃべっているのはどうしてなのか、あまり理解はできていない。ただの偶然といえばそれまでだが。器の底に残っているスープをパンに染み込ませつつ、なんだかいまいち納得のいっていない気持ちを弄ぶ。しばらく無言でいると、鉄格子の向こう側から声をかけられた。
「そもそもどうして君はラジニールへ?」
「え?」
「この街のコンセプトは君の趣味ではないだろう。国境を正規ルートで越えてきたなら、君たちの故郷には遠回りだし」
「べ――別にリゼンブールに帰るとは言ってないじゃん」
「︙︙慌てんでもよかろう」わかりやすいのは変わらんな。
ぽかんとする。
ロイの、素のままの半分の顔には穏やかな微笑みがあった。強烈に、故郷を――ピナコを思い出す。明かりが少ないことと、半分が精巧な化粧で潰されているためにわかりづらかった、彼の顔にある加齢の気配を突然意識した。最後に会った日からかなりの年月が経っているのだから当然だったが。だが、なによりロイの浮かべているのは、遠くのものを懐かしむ表情だった。自分に向けられることなんて絶対になかった。
いや、違う。
自分の前でそんな表情をみせる男ではなかった。
「花を」
思わず口をついて出た。
乗合馬車の行き先表に、街の名前を見つけて――確か花が有名だったな、と思ったのだ。
「買って帰ろうと︙︙思って︙︙それだけだよ」
「ほほう」
「な、なんだよ」
真剣な顔で身を乗り出され、思わず尻の位置をずらす。絶対にあの嫌みったらしいしたり顔が向けられると思ったのに。
「いや、あの無鉄砲な子供にもそういう色気が出てきたんだなあと思うと感慨深いというかなんというか。メッセージカードの書き方はわかるかね? 文面はもう決めたかい? 花言葉についても店員に聞くんだよ、きっと教えてくれるから。そうそうアレンジを選んでもらうのなら贈る相手の情報はたくさんあったほうがいいからな、ちゃんと話をするんだぞ、照れたりしてる場合じゃないからな。なんならわたしもついてい」
「暇か!!」
叫ぶと肋骨が痛いんだった忘れてた。
「バカか君は?」
「るっせぇ︙︙」
ひとしきり悶絶してから、ようよう顔を持ち上げる。ロイはもうあの遠い表情を浮かべてはいなかった。どころかこちらを見てすらいない。爛れた横顔が天井を見上げている。エドワードも口をつぐんで、同じように天井を見上げた。鉄格子の向こうの四つの明かり。四角くて小さくて淡い、汚い天井から降りそそぐ、四本の光の柱。
「手伝えって言わないんだな」
エドワードは低い声でつぶやく。尋ねたわけではない。ただ事実を確認する言葉。
ロイが応える。
「だってもう民間人だろう、君」
戦時中でもあるまいし、そんなに気軽に徴用などせんよ︙︙
薄明かりの下、ロイがゆっくりと立ち上がった。「それとは別の話なんだが。君、立てるかね?」
「あんたが単なる酔狂でこんなところに篭もってるはずはないと思ってたんだよ」
エドワードはため息をついて鉄格子に手を伸ばした。肋骨はやはり痛むが、立ち上がれないほどではない。鉄格子を支えにして立ち上がると、手振りで奥へ退がるようにと示された。無言で従う。その頃には――どこからか、音が聞こえ始めていた。連続する衝撃音。どんどん近づいてきている。悲鳴はまだだが、きっと壁だか床だかに遮られて聞こえていないだけだ。頭上からはすでに埃が降ってきている。四本の光の柱が揺れている。
破壊の音が頭上に到達しきってしまう前に尋ねた。
「見張りのうちのひとり、あんたの部下だな?」
廊下の向こうでロイがにやりと笑う。
「ご名答。――なぜわかったのかね?」
「改造軍服、似合いすぎ。もうちょっと着られてる雰囲気を出さないと」
「難しいことを言う」ロイは腕組みをして難しい顔をしたようだった。「というか、そんなにわかりやすいかね? 一応、路上生活の経験もある男なんだが」
――比較対象がいなければ騙されてたかもな。
エドワードがそう告げようとした矢先のことだった。
「おいあんたら、逃げろ!! なにがなんだかわからんが、踏み潰されちまう!!」
廊下の先の扉が開く音とともに飛び込んできたのはさきほどの見張りの青年だった。
彼は蓬髪を振り乱して駆けてきて、目をぱちくりさせているエドワードの房の扉に取りつく。鍵の束をがちゃがちゃ言わせて錠前に合う形を探している男は必死の形相をしている。思わず声をかけた。
「あんた案外いい奴だな」
「はぁ!?」
「俺たちのことなんか放っておいて逃げるだろ普通。ていうか、逃がしたなんてばれたら、あんたが組織の上層部に殺されるんじゃないのか」
「え? あ、あっ、そ、そうか」
まさか本当に思い至らなかったのか、狼狽をみせる男に向かって手招く。
「︙︙まあいいや、そんなんじゃまだたいして悪さもしてねぇんだろ。逃げなくていいから、むしろこっちに入ってろよ」
「は? 逃げなくていいって、なんで」
「説明は省くけど、ここにいたほうが安全だと思うぜ」男の肩越しに廊下の向こうへ視線を投げる。「そうだろ、大佐?」
「いまはもう違うがね」ロイが肯く。「この地下牢の位置は把握している。あれはまだまだ思慮の足らない奴だが、われわれの頭上を狙って叩き潰したりはさすがにしない。そもそもあれは倉庫街の建物に穴を開けて回っているだけで、死人や怪我人は出さないようにしろと言ってあるがね。それから、いったいなにを競っているのか知らない程度の構成員は保護対象だ。罰金くらいは徴収されるかもしれないが、身の安全は確保してやろう」
「︙︙だそうだ」
いよいよ破壊音は近づいている。埃の塊が引っ切りなしに降ってくる中で鼻と口を押さえつつ、エドワードは目の前の房を指し示した。鉄格子に取りすがるようにして衝撃に耐えている青年は目を白黒させて、エドワードとロイを交互に見た。「た、大佐? あんたら軍人だったのか?」
「あっちはね。俺は違う、ただの一般市民。まあとにかくこっちに来いよ。鍵あいた?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
すぐに青年は鍵を探し当てた。錆びた蝶番が邪魔をしたものの、なんとか扉を開いて中へと滑り込んでくる。ふたりで独房の奥の壁まで退避したあと、男がなんだか言い訳みたいにして囁いた。
「あのさぁ、医者、まだ来てねぇけどよ」
「あ? ああ、もういいよ、別に」
「いや、そうだろうけど、言っておこうと思ってよ。俺は確かに呼んだし︙︙来てないのは、なんかの手違いなんだ」
拗ねたような横顔は、おそらくは彼本来の素直な表情なのだろう。
そか、と笑ったのと同時、破壊音が頭上に到達した。
どかん!
派手な音とともに土埃が舞う。
ぽっかりと天井に口が開いて光が落ちてきた。大量の、強い光が。思わず目をきつく絞る。光源は太陽だ。大破壊の跡から大量の外気がなだれ込んでくる。空間に満ちていた、どうしようもない、混濁した空気がまとめて吹き飛ばされていく。清涼な風が吹き込む中、乱暴な声が響く。「おいクソ野郎、無事か?」エドワードは声の出所を探る。おそらく天井だ。土埃が激しくて見えにくいが、穴の開いた天井――あるいは一階の床――の隅に、しゃがんだ人影がある。
「傷ひとつないよ」いっそのんびりしたロイの声が返った。向かいの独房の様子は覗えないが、きっとあのいけすかない笑みを浮かべているのだろう。「ああ、紹介しよう。彼こそ我らが期待の新星、大槌の――」
「芝居はあとにしろ。俺はあんたの無事を確認しろとしか言われてねえ」
ぶっきらぼうな幼い声がそれだけ告げて、土埃の向こうの影は消えた。数秒後、また破壊音が鳴り響く。ある程度の間隔を開けながら、音は遠ざかっていった。
「おや、行ってしまった。寂しいな」
わずかに不満げな声がつぶやくのが聞こえた。エドワードは――なんとなく、半眼になって告げる。
「あんた、そーいう趣味なの?」
「趣味とは?」
「訳ありの子供を拾ってきて小間使いにするの」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない」土埃が晴れてきていた。ロイの顔が見えるようになる。なんだか本当に嫌そうな顔だった。「小間使いだと? そんな風に思っていたのかね、君」
「や、そういうわけじゃないけどさ」
頭を掻く。なにか言い訳をしようと思って思考を巡らせてみるものの、特に気の利いた台詞は出てこなさそうだった。エドワードが言葉に迷っているうちに、ロイは両手を胸の高さにまで持ち上げた。
「それが誰であろうとも、食い潰されようとするのをただ見ているのは嫌なものだよ」
静かに両手が合わされる。
練成光が小さくひらめいた。次の瞬間には彼の前の鉄格子が数本、あとかたもなく消えている。エドワードの背後では驚きの声があがった。成人男性がひとり難なく通り抜けられるサイズの穴が一瞬で開いたのだから無理はないだろう。代わりにロイの手の中には武器があった。簡素な意匠の槍、のようなもの。――猛烈な既視感に襲われつつ、エドワードはつぶやく。
「︙︙アンタ、そーいや自力で出られるんだったな?」
「実はそうなんだ」
先の騒動で真理の扉の向こうを覗いた男はしれっと言ってのけた。飄々とした態度で独房にあいた穴を通り抜け、エドワードの目の前まで歩いてやってくる。エドワードのほうの鉄格子をなにかに変えるということはせず、槍を握っていないほうの手で一本の格子を掴んで、彼は言った。
「さて、わたしは今から人身売買組織を相手に大立ち回りののち、事後処理ということになるが︙︙君もついてくるかね、鋼の?」
「やなこった」
んべ、と舌を出す。やってしまったあとで、さすがに子供っぽかったかという思いがよぎった。だが一旦出してしまったものを引っ込めても、一度も出さなかった状態にはもどらない。
「俺は俺で気になることがある。こっからは別行動ってことで︙︙また偶然行きあったら、そん時に敵か味方か判断してくれ」
ロイが満足げに笑んだ。
「ああ。そうでなくてはな」
別れの台詞もなしに彼は立ち去った。
その背を見送るでもなくエドワードは普通に牢の扉を通り抜けた。青年に手を貸してやりつつ、大騒動に陥った街を歩き回った。故郷に飾るにふさわしい花を――悪事の色に染められていない、ただ愛されるために育てられたような、花を求めて。
あとがき>